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| 第50代 桓武天皇 |
| 別名: |
山部(やまのべ)親王、
日本根子皇統弥照尊(やまとねこすめろぎいやてりのみこと) |
| 生没年: |
| 天平9年(737)〜 延暦25年(806)(70歳) |
| 在位: |
| 天応元年(781)〜 延暦25年(806) |
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父:光仁天皇 第1子
母:高野新笠(たかののにいがさ)
皇后:
藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)
皇妃:
藤原吉子、多治比真宗、藤原小屎、橘御井子、紀乙魚、藤原仲子、紀若子、坂上又子、坂上春子、藤原河子、河上真奴、百済教仁、藤原東子、橘常子、藤原上子、百済貞香、藤原平子、中臣豊子、橘田村子、百済明信、百済教法、多治比豊継、百済永継
皇子女:安殿親王(平城天皇)、朝原内親王、伊予親王、葛原親王、神野親王(嵯峨天皇)、大伴親王(淳和天皇)、万多親王、明日香親王、坂本親王、佐味親王、太田親王、仲野親王、賀陽親王、大徳親王、葛井親王、高志内親王、大宅内親王、高津内親王、布勢内親王、紀内親王、甘南備内親王、駿河内親王、滋野内親王、安濃内親王、因幡内親王、安勅内親王、大井内親王、菅原内親王、賀楽内親王、春日内親王、善原内親王、伊都内親王、池上内親王、岡成、安世、堪久 |
| 宮居: |
平城京(ならのみや:奈良県奈良市)、
長岡宮(ながおかのみや:京都府乙訓郡向日町)、
平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
御陵:柏原陵(かしわばらのみささぎ:京都府京都市伏見区桃山町) |
1.葛原親王(かずらわらしんのう)(786〜853/06/04)
天長2年 子女に平(たいら)の姓を称することを上奏して許された。
2.高見王(たかみおう)(824〜 )=上総太守仲野親王の娘
葛原親王の第三皇子とされ、京都で生まれたと伝えられている。桓武平氏の遠祖。一説には、母は土佐大目秦福代女。弘仁8(817)年に誕生したという。この秦福代とは葛原親王家の家令だった人物で、葛原親王のもとで働いていたことがわかる唯一の実在人物であり、千馬家系図の製作過程で系譜に組み込まれた可能性がある。比叡山にて元服したとされるが不明。妻については、桓武天皇皇子・上総太守仲野親王の娘ともされているが、詳細は不明である。病弱で、無位無官のままで生涯を閉じたといわれている。
3.平高望王(たいらのたかもち)=正室 藤原良方の娘・側室 藤原範世女
898/04、上総介に任じられた、平姓をうけて皇族を離れ上総の国の介として赴任した。
介は国司の次官、上総・常陸・上野の三ヶ国は826の官符によって親王任国とされ守はおかれず介が事実上国の長官といってもよい地位にあった。
藤原北家が政権を独占する過程で皇親であるが故にかえって政界から遠ざけられ中央では殆ど出世の機会が得られなくなった。しかし地方に行けば、彼らは歓迎され婿取り婚でありながら家系は父系に受け継がれなどで有力な地盤を築く事が可能であった。高望王が平姓を得て従五位下・上総介となり
地方に下って地盤を築く背景にはこうした事情があった。
4.平良兼(たいらよしかね)不明〜939/06=正室は不詳、側室に源護の娘
上総国(千葉県)に蟠踞して常陸国(茨城県)の国香や下総(茨城県)の将門、良正一族と対立した。承平5(935)年から7年にかけて,女性問題や弟良持の遺領をめぐり兄国香と組んで甥の将門と戦った(平将門の乱)。ここで承平5年国香が将門に討たれると,将門との戦いの中心的な存在となり,国香の遺児貞盛,弟の良正らと共に戦ったが,病を得,出家して間もなく死んだ。同族との戦いに明け暮れた一生だったが,常々道心を持ち仏法を崇め,合戦を好まなかったという
5.武蔵守平公雅(たいらのきみまさ)平安時代中期の武人。
平良兼(よしかね)の子。平将門(まさかど)の従兄弟。一族と抗争していた将門と対立、天慶(てんぎょう)3年(940)東国の掾(じょう)となり、追捕凶賊使をかねる。将門敗死後は残党を捜索、興世(おきよ)王を討って功をたて、従五位上、武蔵守(むさしのかみ)になった
6.平致頼(たいらのむねより)不明〜1011/10/08
長徳4年(998年)、同族の平維衡と伊勢国神郡において合戦を繰り広げた為、のちに両者とも朝廷に出頭を命じられ尋問を受けたが、この際維衡は直ちに非を認めて過状(詫び状)を提出し、位階は剥奪されずに淡路国へ移郷とされたのに対し、致頼はなかなか非を認めず過状も提出しなかった為、位階を剥奪の上隠岐国へ配流となった。3年後の長保3年(1001年)、致頼は赦免され五位に復されたという。
7.平致経(たいらのむねつね)
1021年(治安1)左衛門尉平致経と弟内匠允公親が、前年東宮史生安行を殺害していたことが明らかになった。『左経記』検非違使は伊勢において致経の郎党を逮捕。その自白により、彼らは東宮史生安行だけではなく、以前に滝口信濃介を一条堀川の橋の上にて殺害、更に東宮亮藤原惟憲を殺害しようと3日間狙っていたと。東宮亮藤原惟憲は道長の家司でもあり、どん欲な受領としても有名で最後は三位にまで登ったれっきとした貴族。
8.平忠頼(たいらだだより)=経明 930/07/16-019/01/25
父は村岡五郎平良文 平将門とは従兄弟
陸奥守に任ぜられ、下総千葉郡に居城を築く
9.平忠常(たいらただつね)967〜1031父:平忠頼母:左京大夫藤原教宗の娘 平将門の娘
10.平常将(たいらつねまさ)1010/10/24〜1076/07/06父は平忠常母は平公雅の娘
11.千葉常兼(つねかね)1045/09/28〜1126/04/04=鳥海忠衡の娘
下総国千葉郷に因んで千葉大介と号したとされ、これが千葉氏の始まりである。 後三年の役に父・常長と共に従事して功を立てたとされる。妻で常重の母である鳥海忠衡の娘は、この戦いの過程で結婚した可能性が高い
12.千葉常重(つねしげ)1083/04/18〜1180/05/28
平安後期の武士
13.千葉常胤(つねたね)1118/06/14〜1201/04/28
母は武蔵国の豪族、秩父重弘女(娘)
保延元年(1135年)下総国相馬御厨みくりやを相続し、その支配をめぐって国守・藤原親通や源義朝、平常澄と対立。
その後、義朝に従い保元の乱に参加しました。
義朝の死後、佐竹氏に相馬御厨を奪われます。
治承4年(1180年)石橋山の敗戦後、房総に逃れた源頼朝を迎えて国内の敵対勢力を制圧し、鎌倉入府を進言しました。
同年、頼朝の佐竹討伐により相馬御厨の支配を回復しました。
元歴元年(1184年)源範頼に従って平家追討に参加。
文治5年(1189年)東海道大将軍として奥州合戦に出陣。
鎌倉幕府創設に尽力。
その功績により下総国守護に任じられ、
陸奥・薩摩・肥前など諸国に所領を得ました。
源頼朝に厚く信頼された幕府創設以来の功臣。
14.千葉介胤正(たねまさ)(千葉新介)1141/05/08〜1203/08/28
15.千葉常秀(つねひで)
下総守、上総介。「上総介」ではあるが、上総権介広常の系統とは血縁・養子関係ではなく、広常系統の上総介は、広常が殺された時点で消滅した(ただし、相馬常清の子・相馬貞常が上総介を称した可能性がある)。常秀は広常を継承したというわけではなく、千葉宗家の中から派生した新たな千葉家の有力庶家である。兄の千葉介成胤亡きあと、千葉宗家に次ぐ立場の人物として大きな力を持ったようである。
16.千葉介常親
17.千葉泰胤=刑部少輔泰胤
18.千葉常邑=右馬助常邑
19.新渡常貞=下野守常貞
20.千葉貞綱=刑部允貞綱
新渡戸郷に居城、姓を一時千葉から新渡戸と名乗る
21.千葉良広=刑部大輔貞広
22.千葉広盛=将監太郎広盛
23.千葉常望=太郎六郎常望
24.千葉常忠=伊予守常忠
25.千葉常信=大学助常信
26.新渡戸信盛=常陸介信盛 正式に「新渡戸」と姓を改める
27.新渡戸盛頼=左衛門佐盛頼 元良成澄の子
28.新渡戸頼胤=刑部少輔頼胤
29.新渡戸良胤=内膳正良胤
伊沢郡(胆沢)に西根城を築く
30.新渡戸胤望=左衛門尉胤望
旧地元良の奪還を謀るが、果たせずに終わる。
31.新渡戸頼長摂津守=和賀仙人別当浄念女
32.新渡戸対馬守胤重(たねしげ)=和賀氏家臣毒沢民部女
33.新渡戸内膳春治(ときはる)=釜糠修理女
新渡戸内膳正春治は慶長3(1598)年父胤重の命により、始めて南部利直公に謁えた。公は大変喜ばれ年200俵を賜わり、以来安野村(現花巻市高松・矢沢)に居住し、家臣となった。
その後、和賀・稗貫・温礫・遠野・釜石・大槌の戦に遠征し功あり、慶長15(1610)年南部利直公より藤根村に200石を賜わる。南部藩と伊達藩の境界紛争の時も大功があり、又、良く安野村を治め民心を安定した。寛永13(1636)年12月18日逝去し、この地の「檀那の前」(居住地の前)に葬られたという。その墓石と伝えられる石が残っており、現在はこの石の前に新渡戸家一族と旧新渡戸氏知行地・中野村、安野村の人々の協力により、昭和49年に建立された「新渡戸春治記念碑」がある
34.新渡戸常網(つねつな)傳・茂継・弥吉・常英=晴山茂兵街女
35.新渡戸貞紹(さだつぐ)傳蔵・伝蔵・九助=岩間采女娘
36.新渡戸義紹(よしつぐ・よしあき)九助・平蔵・傳助・平七
37.新渡戸常以(つねもち)伝次・伝治・伝蔵・傳次郎・三郎兵街・平七
38.新渡戸常言(つねこと)傳蔵・小助
39.新渡戸常贇(つねよし)傳三郎・常賢・傳助・小助・傳の丞・伝助=栄子
40.新渡戸維民(これたみ)1769-1845傳蔵・栄吉・民司・平六
若い頃から剣、槍を好み、20歳の頃、盛岡で上杉流の兵法を学んだ。当時花巻から盛岡まで毎日歩いて通っていたという。45歳の時、上杉流兵法師範となり、武官として権征軍師湛泉剛弼と号した
41.新渡戸伝(つとう)1798/11/07‐1871/09/27傳・爺翁・常澄 号は太素
42.新渡戸常訓(つねのり)1820/06/11‐1868/12/24十次郎=勢喜(せき)
43.新渡戸七郎(しちろう)
44.新渡戸稲造(いなぞう)1862/09/01〜1933/10/15=メリー・エルキントン 日本名:万里子)
岩手県生まれ。
教育家。父は南部藩士。
1881年札幌農学校を卒業。
1884年東大を中退しアメリカに留学、クエーカー教徒になる。
1891年帰国し、
札幌農学校教授、東京帝大教授、東京女子大学初代学長などを歴任。
特に1906年〜1913年第一高等学校長として人格主義教育を行う。
1919年〜1926年国際連盟書記局事務局次長として活躍、
晩年太平洋問題調査会理事理事長を務め、当時の代表的国際人であった。
1927年貴族院議員。農学博士・法学博士。
著書“Bushido;the Soul of Japan”(1900)は有名。 |
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